考える葦笛 ●連載第二回

白石火乃絵

フォスフォフィライト(-12)Auszug aus
Grundlegung zur Metaphysik der Sitten
                  Kant
 ここにすくなくともこの地球上でもっとも
あわれな存在がいる。人間という。
 さらには、生まれより、幸福から疎まれて
おり、そのことに自らまた思いいたった者が。
 この者はしかしいぜん理性的存在者として
(悪人か善人かによらず)この世に一度とて
実現されたことのない、善というものを意欲
することができる——いかなる情緒も伴わぬ
無感動な義務から行為にいたっても(人間は
義務からしかこれをなしえない)——自他を
損うけっかとなろうと——これによってのみ
——たとい実現せずとも——この者の尊厳は
きえない。
 尊厳とはほかのなにものともかえがきかぬ、
みずからの意志によってしか失いえぬ価値、
非価値の宝石。
 人間にかぎらず、理性的存在者であるなら、
いかなるときにあってもこの行為をなしうる﹅﹅﹅﹅
これこそが自由。
 なされても、その行為は目にみえぬ[悪は
どんな見かけをしていようと目にみえる]。
 そしてとはなにか、けっして知ることは
できない、それは、すべての理性的存在者に、
生まれつきそなわっている狂気。



  1(前回を0とする、章は独立して読んでさしつかえない、ゆるいつながりはある)

 逆境と絶望的な悲嘆が生きていく気力をまったく失わせてしまったとしよう。もしその不幸な人が心を強くもち、自分の運命について気弱になったり落ち込んだりせずに、むしろ憤慨し、死を望みながらも自分の生命を保持しているが、それは生を愛しているからでも傾向性や恐怖心からでもなく、義務から保持しているのだとする。そういうときに、その人の格律は道徳的な中身をもつのである。
 カント『道徳形而上学の基礎づけ』大橋容一郎訳(岩波文庫)

 この地球という惑星ほしに、いったいどこからやって来たのか、一人の著述家をしてこんな一節を書かずにおらせなかった思想は。それともこう問うべきか、いったいどんな生活や時代や環境が、と。いや、それらを超越しているとしかわたしにはおもわれない。住む国も話す言葉も時代(この語がまだ生きているなら)も異る、おしまいみたいな暮しをしているぐぶつにもなにか……そのしかた﹅﹅﹅がいわくいいがたい。

 自分のことが書いてあった、とりあえずは端的にそういってみる。なんとも情けがないことか。生を愛するからでも、死ぬのがコワイからでもなく、ただ自殺しないことだけをだれにいわれるでもなく勝手に守っている。露悪や告白ととられたくないのだが、友達や家族や先人たちのこと、じぶんなりには大切に想っている。だがかれらを悲しませるとか、かれらとともにまだありたいとか、もはやそれが自殺をしない理由にならないくらいには、じぶんとの相談を抱え込んでしまっている。あまりに手前でももてあましているので体質だとおもうしかない。先の一節をものした哲学者なら、傾向性とでも表現するだろうか。

 わたしが自殺へかたむくのに説明がきかないのとおなじように、自殺を耐えているのにも理由がない、少なくともじぶんでこじつけられるようなことは。さいわいにもやらずにいることが臆病だとはじぶんでおもわない、するのが卑怯とおもわないのと同じくらいに。なにより自殺という文字を書いて憚らぬところをみるに、おそらくわたしが自殺することは死ぬまでないだろう、もちろん自殺でないかたちで。

〈それはわたしからもっともとおいところにある〉

 と、いまではおもえる。先の一節のためといったらいいすぎか。とにかくあぶない幾夜かは乗り越えることができた、そしてこれを書けるとこまでは戻って来た。ただの文章が、ひとりのぐぶつにそうさせることのおどろきがおどろきでなくてなにか。わたしにはなによりそのことが不思議でたまらないのだ。不思議でたまらないうちは死にたくないようにおもう。著述家の名誉のためにいっておくが、この不思議をわたしにあずけてくれたのは著述家でもなく翻訳者でもなく文章でもなくわたしでもない。永遠に何かわからぬものだ。


 だが現に自殺したものはどうなる。その何かわからぬものがかれらには届かなかったというのか。そんなインチキがあるだろうか。畢竟おまえが自殺をかたりながらしないのはおまえが噓つきだからだ。そういわれてしかたがないとおもう。

 わたしはこう考える。自殺は個人だけのものだ、それが本人のせいでなくとも。演劇人アルトーはゴッホは「社会の自殺者」だという。社会が、わたしたちが、かれを殺したのだと。いや、ゴッホを死においやった社会が、わたしたち自身が、そこで自殺したのだと。わたしはこの考えにうなずく。それはわたしたちの、問題だ。だがいぜんゴッホの自殺はゴッホにとっては絶対にゴッホだけのものだろう、かの目的自体の意味のまんなかだ。

 こういう視方もある「自殺は自殺者とその家族の問題だ。もっといえば親の問題、子供の自殺はかならずふた親かそのどちらかの代理死だ。もとをたどれば母親(かその代理者)との乳胎児期における関係障害につきあたる──そこが上手くいってさえいれば、たといいかなる地獄のような環境であろうと、子供が(その成長後も)自殺することはまずない」。そう思う、しかしやはりそれは、わたしたちサイドの宿題だ。自殺者本人にとって自殺は、てっていてきに個人のマター、自分で自分の命に手を下せるのは自分しかいない。意識がはっきりしていなければとうていできるものではない。そうでないならそれは自殺でなく自然死とよぶべきだろう。そしてどんな死も、社会の、わたしたちのあいだでの死であることは変わらない、わたしたちが他者の死を死ぬことができず、また自らの死を体験することができないのと同じくらいに。

 わたしは父方の祖母を看取るまで(瞬間にはいあわせなかったが)、じぶんが他者の死を死ぬことができないことを、心の底からわかっていなかった。ちょうど十年前、わたしが十七のとき父の父が亡くなったときには、それはわたしの﹅﹅﹅﹅人生の出来事にすぎなかった、いや、人生上の出来事という意味では、すでに十歳のとき、わたしの知らない理由で会うことがかなわなくなったときすでに祖父母は死んでいた、そのことを強くおもいなおしたにすぎなかった。祖母のときはちがう、祖母という個人からの絶対的な拒絶、そのことへの覚醒を伴った。わたしは自らのこれまですべての越境──実際には不可能である越境を可能と思いなす心の越境を耻じるこころを知った。

It's a long way down and I don't want to be forced
Into a life of continual crime
   Bob Dylan 'Workingman's Blues #2'


 祖父の死いらい、祖母と二人暮らしをしていた叔父から、父のもとに祖母がたおれたというしらせがあり、たまたま実家にいたわたしは、終電を過ぎていたのですぐにタクシーで病院に行くことにし、渋っていた父も問答無用で連れて行った。つくと叔父は動転していた。新型コロナ・ウイルスにともなう緊急事態宣言はすでに解除されていたが、病院はいっさいの面会を謝絶していた。医者によると今夜中でもおかしくないという。

 祖母はそこから二週間耐え、その間に(看取り専門の)訪問看護をみつけたわたしたちは、叔父と祖母が暮らしていた家にひきとることができた。入院前とはすでに別人というほどに痩せこけてしまったという(わたしがさいごに祖母と会ったのは一年前であった)。

 わたしは着替えをもってその家の祖母のもとにはりつき、叔父と交代で看病した。祖母は癌ですでに全身に転移しており、さらにはモルヒネを断固拒絶したためにそこから十日にわたって激痛にうめきつづけることとなる。交代は名目で、祖母とともにわたしと叔父とはほとんど寝なかった。身辺と食事の世話のほかには、握った手をはなさないこと以外にできることはない。一週間してわたしは自らその家を去った。三日後、祖母は絶命した。

 話がちがった。わたしは入院のときにすでに、というより先に書いたよう、十歳のときにすでにわたしのなかで祖父母は死んでいた。だから、まったくの義務として、わたしは考えるまでなく肉体をもった死者を看取ることにした(そうでなくとも、あきらかに祖母は、自然死へとむかっているように見えた、医者がいうまでもなく)。義務は看取ることであり、せめても苦痛をまぎらわそうと手を握ったり額に手をおいたりするのは自然じねんである。気持はただ死んだはずの人の生きている肉体のちかくにありたかっただけだ。

 だが叔父はちがった。かれは祖母が長くないということを頭ではわかっていても心ではまったく受け容れることができない。面会謝絶の入院中も、あとからきいた話だと、祖母の病室の窓から見える駐車場に、大きな手作りの横断幕にメッセージをかき、大声で叫びかけていたという。わたしは詩を書いたり、芸術を標榜としているくせ、その光景を想いぎょっとしなかったらといったら噓になる。そうしたいとおもうことはできても、行動にうつすまではいかないたぐいのことがある。まったく売れない画家という身分で、しかもすでに土地でいわくつき﹅﹅﹅﹅﹅だったために、恋人と逢うことをその家族から禁じられ、この塀を乗り越えようと恋人が軟禁状態にある町人の家を夜にたずね、夜道のための蝋燭の炎に手をあて、「この炎がわたしの手のひらを焼いているあいだけでかまわないから愛する人に会わせてくれ」と玄関先で恋人の父親に頼むことを、わたしたちは心の底からそうしたいと想うことはできる。だが、にもかかわらず、それをゴッホのように、あたりまえ﹅﹅﹅﹅﹅に行動には移せない、ひとのめが邪魔をする。少なくともわたしはそうだ。わたしは叔父をみて、二度と藝術家などとじぶんをおもうまいとおもった。わたしにとっての藝術家はアートを製作している者でなく、そういう人間だからだ﹅﹅﹅﹅﹅﹅(叔父は写真家でもある)。

 だがやはり話がちがうとおもった。栄養をとらねば生命は死へ突き進むだけだがすでに祖母のからだは食事を摂ることができる段階を逸していた。高栄養価ゼリーでも、祖母にとってはすでにがんに侵されつくした内臓の激痛を増させるだけの異物にすぎない。すでに自宅にひきとる段で、点滴による延命措置もとらないという決定を父と叔父と訪問医とのあいだでくだしている。わたしもそれに同意のうえで、看病についている。あとは水分と、おきもちていどで食事を与えるのみということになっていた。

 叔父は執拗に食べさせようとする。食べなければ生き物は必ず死ぬからだ。母親は食べ、いや増す激痛にたえる。一週間するうちにわたしは気がつくと摂食障害におちいっていた。祖母の口に食物が送られる光景が反芻されのどがひらかない。

 叔父を隣室に呼び出し、三十分ちかくにわたってまくしたてる。さいごには「あなたがやっていることは虐待だ」と迫った。わたしがなにもかもまちがっていることはたしかだ。越境はきまった。呼び出す前からわかっていたが、頭ではわかっていてもわたしはわたしの内臓の叫びを無視することができない。腹の憎悪に比例するかのように論理は冴え渡る。言葉で叔父を殺せるとおもった。これで詩人への志にも永久に失格した。

 祖母に一言の挨拶もせず、わたしは家を去った。

 三日後、祖母はいれかわったわたしの妹の腕のなかで発作とともに息絶える。三十分前には、ふつうのプリンを1・5個たいらげた。「どんなときも食べなきゃだめよ」というのが祖母の生涯をつらぬいての格律であった。認知症になってからも変わらなかった。叔父はその格律を尊重した。祖母は死ぬまで食べ、生きた。わたしが望んだのは安楽死を与えるというまごうかたなき殺しである。わたしは祖母の格律だけでなく、藝術家の心や詩人の魂だけでなく、人間の掟に背いた。それでも食べ物が口に詰められる光景にだけは堪えることはできなかった。

... I don't want to be forced
Into a life of continual crime

 わたしもまた自らの格律に従った。そして現在まで、たんに義務から食べ、死なないでいる(空腹はかなしみだが食事は苦痛だ)。その格律は、祖母にも自然にも命にも背叛している。「いかに苦痛でも食べ、死なないこと、自殺しないこと」本能からするはずのことを義務としておこなっている、これが背叛でなくてなんだ。カントはこの世でただひとり、こんな生命の敵にむかい「その格律は道徳的な中身をもつ」と、この世のものならぬ旋律でささやいてくる、「なぜならおまえの常識はいっさいその格律に従おうとしない──にもかかわず、おまえはこれを義務として守っているのだから」
 この地球に、いったいどの惑星からやって来たのか、この葦笛の音は。

  Dagegen wenn Widerwärtigkeiten und hoffnungsloser Gram den Geschmack am Leben gänzlich weggenommen haben; wenn der Unglückliche, stark an Seele, über sein Schicksal mehr entrüstet als kleinmüthig oder niedergeschlagen, den Tod wünscht und sein Leben doch erhält, ohne es zu lieben, nicht aus Neigung oder Furcht, sondern aus Pflicht: alsdann hat seine Maxime einen moralischen Gehalt.
Kant «Grundlegung zur Metaphysik der Sitten»
  [冒頭引用節当該原文。Suhrkamp 2020, frankfurt 1968. Herausgegeben von Wilhelm Weischedel]


     2

 シモーヌ・ヴェイユは、一九〇九年二月三日、パリで生まれ、一九四三年八月二四日、イギリス・アシュフォードで亡くなったユダヤ系フランス人女性哲学者である。(…)高等学校リセでアランに学び、高等師範学校エコール・ノルマル・シユペリウール卒業後、高等学校の哲学教師として赴任する。教鞭をとる傍ら、労働運動に深くコミットし、三度の転任を余儀なくされる。一九三四〜三五年にかけて一女工として工場で働く「工場生活の経験」をする。一九三六年、スペイン内戦に参加するべくバルセロナに赴くも、炊事場で火傷を負い、やむなく帰国を余儀なくされる。一九四〇年、ユダヤ人法により教職を剥奪される。一九四一年、両親とともにパリからマルセイユへ移る。一九四二年六月、マルセイユからカサブランカ経由でニューヨークへ亡命する。一九四二年一二月、単身、ニューヨークからロンドンに戻り、自由フランスのための文書のほか、おびただしい数の論文を執筆する。一九四三年四月、自室で倒れ、肺結核を発病する。アシュフォードのサナトリウムに移るも、「フランスの子どもに配給されている以上の食べ物はとらない」として充分に栄養をとらずに、一九四三年八月に死去する。生前刊行された著作はなく、一九四七年に、ギュスターヴ・ティボンによって編纂されたヴェイユのノート抜粋『重力と恩寵』がベストセラーとなり、その名が知られるようになる。
  『シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー』今村純子編訳(河出文庫、訳者まえがきより)

 ヴェイユの目的自体としての死に方は、理念の上では十七歳になったばかりの頃の論文にすでに素描されている、「犠牲とは、苦しみを受け入れることであり、自己のうちなる動物に従うのを拒絶することである。そしてまた、自発的に苦しむことによって、苦しむ人間を贖おうとする意志である。どの聖人も砂漠に水を流した。どの聖人も、自分を人間の苦しみから分かつであろうあらゆる幸福を拒絶したのである。したがって善とは、人間であるために、すなわち神に倣うために、個人としての、すなわち動物としての自己を自己から引き離す運動である」(「美と善」一九二六年二月、太字引用者)。彼女の主張に一般論をぶつけるまえに、カントの薄い本からいかに頭がいいからといって庶民をばかにするのもいいかげんにしろといたくなるいわれるまでもない事実をあえてきく、「人間はそれ自身、きわめて多くの傾向性によって触発されてしまうものなので、たしかに実質的な純粋理性という理念をもつことはできても、それを具体的に自分の生き方に活かすのはそう簡単なことではない als selbst mit so viel Neigungen affiziert, der Idee einer praktischen reinen Vernunft zwar fähig, aber nicht so leicht vermögend ist, sie in seinem Lebenswandel in concreto wirksam zu machen.(『道徳形而上学の基礎づけ』同前。ドイツ語原文、同前。)。〈きれいごとで出来上がったまっとうなありうべき生き方を志すことはだれにでもできるが、弱さや欲望があるので人間にはそれを言葉通りに実行し体現することはむずかしい〉という中学生並の気づきに、「実際的な純粋理性einer praktischen reinen Vernunft」というかれの哲学体系からスコラ的な語彙が混ぜられているにすぎぬ凡庸な一文で、とても十七歳のヴェイユの溌剌とした夢にはかないそうもない。それなのにわざわざ原文まで引用するのは、日本語で考えるうえで、哲学のベースたる印欧諸語とのちがいを常に意識にのぼせておきたいからだ(ヴェイユの原文は手元にないので翻訳による)

 ここで目につく「実際的な純粋理性」はわが国での翻訳慣行上「純粋実践﹅﹅理性」と訳されてきたもので、薄い本はそのまま次の『実践理性批判』へとつながっている。ただpraktishは「実際に即した」という意味で、手元の初学者向けの『ベーシッククラウン独和・和独辞典』をひくと「praktisch実際に即した、実際的な❷実用向きの、実際の役に立つ❸開業している❹実地に」と慎重に「実践」という訳語が避けられている。これはこれまで多くの誤解がつづいてきた反省によるものと考えてよい。この語は『資本論』の翻訳上でも大きな誤解をひきおこしてきたいわくつきである。すぐちかくに die Praxisという語があり、こちらは「実践、実地、実務(反対語・Theorie)」とある。(引用文は「実践的な」を「実際的な」に直した。)

 ここでわたしたちのつかっている日本語に戻る。〈実践〉と実際的なを日常現代語の感覚ニュアンスにそって考えると、実際的なは、つかえる﹅﹅﹅といった感じか。逆に言えば実際的でない﹅﹅﹅とは、考えの上ではありそうだけれども、じっさいにはそうなってないよね、役立たず、無用の長物、夏炉冬扇、机上の空論、つかえない﹅﹅﹅﹅﹅というかんじか。一方で〈実践〉といわれると、普段使いのないカタイわざを習ったあと、ハイでは実践、みたいな、練習問題、応用問題、あるいは消化器講習とかちょっと訓練っぽい感じをうける。この少しの差が甚大となる。

 さてカントはそこに純粋reinの語をくわえている。つまり「実際的理性」と「実際的な純粋﹅﹅理性」との二つの概念があって、先の引用では純粋つきの方でよみくだせば「実際にそうなっている純粋理性」とこれではいぜん頭痛のする日本語にしかならない。十七歳の溌剌にひきよせれば、「生の現場でわたしたちが発揮しうる﹅﹅﹅神倣い」ともなるか。少し苦しい、というのもそうしたら、実際的なというよりかは実践のほうが、現代日本語のニュアンスとしてはちかくなるからだ。だがもう少しふんばれば、実際的なというのは練習などない一発本番の連続、いや本番という意識さえなくすでにそこに生きているもの。〈実践〉はやったことがないが、知識として教わったことならあるずぶ﹅﹅の状態でそこへ追い出されていくこと。だとすれば「実際的な純粋理性」は「習い覚えたのでなしにわたしたちが発揮しうる﹅﹅﹅、ピュアでまじりけのない理性」ということとなろう。そして純粋のつかないただの「実際的理性」とは、ようするにわたしたち人間の欲望とか弱さとかいう傾向性まじりの、すでにわたしたちによって生活行為されている理性と考えれば大まかにはまちがいにならなそうだ。もう少しいえば、習い覚える﹆﹆﹆﹆﹆とは、学校のように半ば強制でもって子供への矯正として習わされるという意味で、親や近所の人人や飼い犬や昆虫、空などから自然に倣い覚えるものの方は実際的のなかまに入れてよさそうだ、少なくとも現時点では排除すべき理由はない、とはいえ、荒野で狼に育てられた少女はカントのいういみでの理性はもっていないことになるだろうから、ここは保留しておく(ところで理性とはなにか?)。

 ヴェイユから離れたようにみえるが、この面倒な手続きを踏まずにおかれなかったのは、わたしの責任というより、近現代日本語の未発達か、そもそもの日本語と印欧諸語の水と油の関係のせいといいたくなる。そもそも母語と呼ばれるはなしことばとちがって、「学校のように半ば強制をもって子供への矯正として習わされる」しかない書き言葉に依存した哲学は、プラトンがソクラテスの問答を文字に遺したときから、ある間違いを引き込んだ。

 カントの薄い本の原註にこんなことが記してある。

きわめて日常的な観察でも分かるように、ある誠実な行為が、この世あるいはあの世で何らかの利益を得ようとするあらゆる意図から隔離され、困窮や誘惑のような大きな試練にあっても不動の心で実行されたものだと表象されるとき、その行為は、それに類似してはいるが他の動機によってほんの少しでも影響を受けているどんな行為をもはるかに凌駕してそれらの輝きを失わせてしまい、さらにはあのように行為できればという心を高揚させ、願望を呼び起こすのである。少し年齢がいっていれば子供でさえそのような印象をもつのだから、それ以外の方法で子供たちに義務を提示してはならないのである


 ここには書き言葉なき、いや言葉なきといってもいい世界の提示がある。「わたしたちが発揮しうる﹅﹅﹅、ピュアでまじりけのない理性」、十七歳がいう聖人の行為、そこで発揮されていた輝きのごときものは、けっして大人によって習い覚えさせられ訓練させられてはならないといっている。なぜか。そうすると多くの子供たちはそうするのがやになっちゃう﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅し、やに﹅﹅ならなかったとしてもけっきょく大人に褒められる﹆﹆﹆﹆﹆﹆﹆﹆という他の目的によってよごされてしまう(それは輝かないだろう)からだ。子供に「あのように行為できればという心を高揚させ、願望を呼び起こす」のは、たとえばわたしたちには漫画の中の行為が身近かもしれない。おもうに、カントやヴェイユの時代の子供達の夜をいろどる聖人たちの伝説も、わたしたちが子供のときに(大人になっても)夢中になった漫画やアニメの登場人物たちの行為も、それが史実につながっていようがいなかろうと、変わらぬものなのではないか。

「美と善」でヴェイユは神殿のように美しい行為として、プルタルコスの『英雄伝』からアレクサンダー大王の伝説をひきあいにあだす。『アレキサンダー大王は、自らが率いる軍隊に砂漠を横断させており、かれらと共に喉の渇きに苦しめられている。大王は、兵士のひとりが大王のためにかぶとに容れてもってきたわずかな水を砂漠の砂の上に流す。(同前。)

 なんという簡潔さ。わたしはこの手の、福音書や日本の昔話(風土紀や柳田民俗採取譚)、ローマの英雄伝や北欧神話(その多く近代詩人によって書き残された)すべてに共通する(ここでは書き残されたのをさし、インディアンやアフリカの人々の口承が現代にまで続いているものは数えていない)異様なまでの簡潔さを愛する。最近の漫画は字数じかずが多すぎる、それは読者の想像力を作者がばか﹅﹅にしはじめている兆候でしかない。反対に伝記採取者の簡潔さは、子供にその伝記や物語をかたりきかせる大人の﹅﹅﹅想像力への信頼をものがたっている。太宰治の戦時下の『お伽草紙』、明石家さんまが娘さんに語りきかせた即興のお笑い版昔ばなし、そんな著名な例でなくとも、これまでに子供が語り聞き、おそれ、あこがれ、わらい、ないた物語や伝記の数数は、夜夜の大人たちの想像力によりどれほど輝きをいや増させたことか。そこには口伝えを文字に遺すさいの記述者たちの簡潔への努力が、見えないかたちで力を添えていたのでなかったか。わたしが未だにどうにも好きになれないでいるプラトンにしても、ソクラテスが毒杯を呷る日を記述するにさいし、「プラトン(いあわせなかった、)は病気だったと思います」(『パイドン』)と異様な簡潔さでもって無限に奥深い心の襞を想像する余地をわたしたちに遺している。日本の詩歌で唯一世界に通じているのが十七文字の俳句HAIKUであることを、日本語表現者は何度かんがえてもかんがえすぎたことにはならないだろう。プルタルコスの簡潔さは十代のヴェイユに、どれほど哲学する砂漠の自由を与えたことか。
 彫刻家ロダンの言葉に、「藝術の仕事は小鳥がとまる小枝を用意すること」とある。藝術にかぎった話ではない。詩人や思想家、医者さえもが、そうともいわず大人一般が子供になすべきはこの小枝を作ることでなかったか、いや小枝以外は作らずに了うことではないか(小鳥まで創ってしまったら──それは創れないのだが──子供はその木に気にも留めなくなるだろう)。砂漠のまんなかで水を拒む歴史上の将軍の行為と都会の孤独な藝術家が小枝以外は創らずに了う行為が、すなわちここで善と美が、初めて出会う。最初の引用文でヴェイユは「神に倣うこと」といっていたが(にっぽんの中原中也もまたおそれおおくも「芸術とは、自然の模倣ではない、神の模倣である!」と云う)、さらには「わたしたちが神へと向かうときにはつねに、拒むという働きのなかで、わたしたちによってねられた物質を拒み、人間の精神という形式を受け取っているがゆえにその物質を、完璧であり、動かず、身振りの象徴としている。この拒絶が物資を客体とするのであり、拒絶によって美しくなるとも言える」これはまさに彫刻家の創作行為の現場をとらえている、この拒絶、「動物としての自己を自己から引き離す運動」を善といい、それこそが美を創造するさいのわたしたちの身振り、舞踏なのだという。「美しい行為とは、祝福したい、そしてまた遊戯したいと思わせるものである」カントならここにつけくわえてこういうだろう「それ以外の方法で子供たちに義務を提示してはならないのである」と。

 話はふりだしに戻る。もっとも重要な点がふれられずにしまっている。

 だいいち、神に倣うといっても、現代にっぽんに住むわたしたちにしてみればまったく抽象的にすぎ、なんのよるべもないのと同義だろう。そもそも理性という言葉にしてさえ、わかるようでじっさいは﹅﹅﹅﹅﹅なんのことやらさっぱりわからないでいる。「理性的にふるまう」などといって、せいぜい感情に流されないとか、欲望におどらされないとか、そのくらいの意味でしか使っていない。なにより、「〜してはならない」とか「〜すべきである」とかそういう語調をもっていわれる道徳の教えをわたしたちは多くなによりもものうく﹅﹅﹅﹅おもう。このものうさ﹅﹅﹅﹅が葦笛を吹く。


     3

 一、芸術は、認識ではない。認識とは、元来、現識過剰に堪られなくなつて発生したとも考へられるもので、その認識を整理するのが、学問である。故に、芸術は、学問では猶更ない。
 芸術家が、学校にゆくことは、寧ろ利益ではない。
 然し学問を厭ふことが、何も芸術家の誉れでもない。学問なぞは、人が芸術家であれば、耳学問で十分間に合ふやうになつてゐる。認識対象が、実質的に掴めてゐれば、それに名辞や整頓を与へた学問なぞは、例へば本で云へば目次を見たりインデックスを見たりするだけで分る。偶には学びたくなるのも人情だから学ぶよママろしいが、本の表題だけで、大体その本が分らない位なら、芸術なぞやらぬがまあよい。(尤も、表題の付け方の拙い本は別の話だ。)
 「芸術論覚え書」中原中也(現代詩文庫『中原中也詩集』)より

 失格者にもしわずかばかりでも救いのようなものがあるとすれば、それは立派なひとのいうことに──どっちにせよ失格はきまっているのだから──存外素直にききいることができることだろうか。中也は自らが藝術家であり詩人である天稟を疑ったことはなかった。おもうにそれは根拠のない自信などではさらさらなくて、たえず実行のうちにあったからにちがいない。実行といっても、たんに詩作や創作をしているということではない、生き方としての話で、詩人であり藝術家であるから仕方なく(というのもほかにすることもないので)詩や作品をつくるので、その逆ではない。わたしは生き方として失格しているから、いくら創作をしようとも、詩人であったり藝術家であることはありえない。そしてそんなわたしの唯一のねがいといえば、ビリっけつでもいいから、せめて人間にはなりたいのだ。
──でもどうやって?

 本屋で『道徳形而上学の基礎づけ』という本の新訳が出ているのをみかけた。「道徳」と「形而上学」などというわたしの嫌いな言葉を二つよくくっつけてくれたなと思う。通りすぎ他の本をみているうちになにかひっかかってきた……道徳っていうのは人間と人間の社会のかかわりがどうとかそういうことだろう。形而上学はメタフィジックで自然をメタにとらえる学問みたいなところなはずだ。言葉のとおりならあの本の著述者は学問の基礎がなってないか、まあというより翻訳者がそうなのだろう。岩波文庫もたいがい﹅﹅﹅﹅だ。……だがそうでなかったとしたら。あの本にはわたしが考えているのと似たようなことが書かれてあるのではないか。人間と人間の社会を一個の自然とみ、それをメタの次元から視る学問。そんなことがあるとすればそれは宇宙人としての人間を定立しようとしているしか考えられない。わたしの考えはこうだ──これは十歳のときに考えていらいずっと護符おまもりのようにひそかに、ときにうるさく保ちつづけてきた考えのだが──「社会のために人間がある﹅﹅んじゃない、人間のために宇宙があるんじゃないように」。

 人間のための社会があり、宇宙のために人間がいる﹅﹅

 考えの発端は、大人から「社会のために役立つ人間になりなさい」といわれることへの子供っぽい反発からだった。人のために社会っていうのはあるんじゃないのか、そうじゃなかったらなんで何もしてくれないどころかぼくをいたみつけてくる社会のために尽くさなきゃいけないのか、と。そんなのおかしい、人のためにならない社会だとしたら、それは社会のための社会で、それはけっして神様ではないのだから、ぼくら人間の敵じゃないか。だから社会はそれを必要とする人のためにある、宇宙が人間を必要としているように。

 だとしたら人はなんのために生きるのだろう。ものごころついた頃から父に『ガンダム』を見せられていたからか、いまからではわからないが、とにかくわたしは「宇宙のために」、そういう答えでいいとおもった。会うことが許されない人と会うため、そんな宇宙項を必要としたのかもしれない。近所にいた父方の祖父母がある日突然いなくなった。小4の終りくらいだったと思う。小5の始業式の日、わたしは生まれてはじめて恋におちた。そんなことがこの身に起きるなどということはまるで信じていなかった。自分はまぬかれている﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅のだとさえおもっていた、それはとてもはずかしいことだから。たぶんまだ穴が空いていなかったのだ。祖父母がいなくなり、両親の様子もおかしくなった。父は朝ごはんをひっくりかえし、じぶんのつくったおかずやごはん粒にまみれた寝巻き姿の母をひきずり外に蹴り出した。丸太ん棒みたいな父が痩せ身の小さな母の肋骨のあたりを思いっきり蹴った音がいつまでも耳にのこった。「ぼくがいい学校に入ったら元通りになる。これは神さまがぼくにかしてる試練なんだ、『宇宙のために』」こう想うほどに「宇宙のために」はわたしの考えにいつもくっついている。これもたぶんものごころついたころくらいからことあるごと神様に話しかけていた。そしてわたしの神様はわたしのための神様でなくって、いつも宇宙のために心を痛めているようだった。夢のなかで、いくつかのきまった悪夢があるのだが、それは神様が宇宙を悲しんでいるので、その波が押し寄せるのだとおもっていた。神様がぼくをひつようとしているかはわからないけど、神様が悲しんでいると悲しくなる。「また神様がかなしんでる」目が覚めるたびおもった「ぼくにできることはなんだろうか」。

 いい学校﹅﹅﹅﹅というのにはちょっと詭弁がまざっていた。たしかにそこは世間ではいい学校ということになっているが、わたしがそこに入ろうとおもったのは、別の意味でいい学校﹅﹅﹅﹅だったからだ、というのも小5の五月にその中学の文化祭にいったとき、TVより面白いことやってるとおもった。中庭で風変わりなプロレスをやっていたのだ。ファンタジスタ、エンターテイナー、あこがれがつまっていた。なによりも空気。青空。なんなんだこれは。サッカーも空手もピアノも勉強も、どこかお母さんのためにやっているかんじがしていた。わたしはこれを書いている今でも、これまでにほんとうに心の底からじぶんでやりたいとおもったのはこの文化祭だけだ。小5のわたしには、まず小6になったときの子供まつり(小学校の文化祭みたいなもの)のお化け屋敷(小6だけにゆるされた出し物)と運動会の応援団長をやるという目標があった。宇宙を楽しませること。そのためには人間がまず、大いに盛り上がってエンジョイしなくちゃならない。それが格律だ。それからいい学校に行って、あれ﹅﹅をやる。そしてそれらすべてやった。元通りになったろうか。最後の文化祭の直前父から祖父が危篤になったとメールが来る「頼みますから会ってやってください」。
 今更なにをとおもった。いくと昏睡づくだったのがわたしが来る直前に目覚めたという。喉には呼吸器がつながれていて洞穴の風みたいな音しかしなかったがききとれた「おまえ、おれにそっくりじゃねえか」。帰りは雨だった。土地勘のない高田馬場駅ちかくの線路脇の古書店でなぜか『グレート・ギャツビー』をかった。三月の火葬の帰りは嵐だった。同じとこで今度はでヘルマン・ヘッセの『春の嵐』をかった。どちらもわけもなく雨嵐のなか傘をささずに読み歩く。祭が迫る。〝Oh もしかしたら君にも会えるね〟。「元通りになる」。

〈祭が終わった。? なんでおれはまだ生きている。命を賭けたはずだ。なぜ死んでない〉

 ソクラテスの問答法がしばしばおちいった不可解を、アポリアというらしいが、論理の話ではない。命を賭けたのも本当だ、まだ生きているのも本当だ。なぜ、なぜが始まったらもうあぽりあだろう。世界は眼では何も変わってみえない、いやそれからもっとひどくなった気がする。革命は眼に映らない。たれも、仲間さえ、この宇宙に革命があったことに気づかない。だがそれは起きたのだ。その意味がまだ摑み取れないだけだ。そしてそれはまだ終わっていない、何度でも何度でも、起こしつづけなくてはならない、続かせなくちゃならない。もう一回やればいい、そしたらもう少し何かわかるかもしれない。何より、いま世界に一番足りないもの、それが祭だ──新型コロナウイルスが世界を覆った年の瀬、〝もう一回!〟(「さくらんぼ」)でわたしはひとりの旧友とともに拠を構え活動をはじめる。

 翌春、祖父の命日に祖母がみまかった。一年前より重めの認知症にかかっていたが看病していると、突然正気に還ることがあった。こちらは気づかずに、故郷の兄や父の役などを演じているのだが「あんた何いってるの、火乃絵でしょう。お兄ちゃんなんかとっくに死んだわよ」といわれるので面喰らう。夜中の三時、全身癌の痛みにうめきつづけていたのが、また急に我に還ったのか、そうでもないのかわからないかんじで、カーテンの閉められたうす暗がりの部屋の天井あたりを指さし(そこには無地のかべがある)様子を窺うわたしにむかい、ほら見てえ、と瞳を輝かせて言う「星が繋がってるからわたしは大丈夫」。

…起きて」祖母の火葬の朝、つい暁方まで起きていたわたしは祖母の声で目を覚ました。火葬場では骨を一片喰った。しばらくして夢で電話がかかってきた。話をしていると玄関のインターホンが鳴り「宅急便が来たからまたね」。そのあとの夢でついにわたしは祖母のいるマンションをつきとめ(目黒通りから八雲の方へいく坂があり、あるのがあたりまえすぎて気にかからなかったそこを登ると急にあたりが暗くなり、廃墟のような建物がそびえてくる)のアパルトマンで声のする死体の祖母をみつけ、少し話し、冷たい頭をお腹に抱え眠りに落ちながら目が覚めた。その黒髪と骸の重みが腕と腹の上にのこって消えない。

 この腹は起きて少しすると、たしかにわたしに空腹を訴え、夢の追憶とときたまの記述から立ちあがらせ、この生活世界のなかで活動するようにようせいしてくる。だが、空腹とはもうひとつ別の感受性をもっているようにおもえてならない。食事がこの腹を黙らすのとちがうやり方で、夢の中からもちこされた祖母の頭のおもみはこの腹の飢えをいやす。

 わたしがその題名から手にとり、ひらくなり目にとまった箇所から葦笛の音をきいた本の著述者が他のところで記している、「人間の肉体は、物質的法則に従えば、たがいの部分の関係にすぎない。ところが人間の肉体がそのなかに生きている霊によって維持されるかぎり、人間の四肢や機能はそれらの形態、活動、存続を可能にさせる魂の力にとって特記すべき価値をもっている。この内的価値は人間には知られていない」。この本は『視霊者の夢』というタイトルで訳されている(金森誠也訳、講談社学術文庫)。スヴェーデンボリという霊界への透視力とそれによる予知力をもっていた実在の(著述者と同時代人)人物とその能力の検討をとおして、のちの批判哲学体系のスプリングボードとなった著作である。同書での著述者の明快複雑な立場は以下の一文にうかがえる「かつては、しばしばこの種の人々を焼き殺す﹅﹅﹅﹅ことが必要であると思われたが、いまでは彼らの腸内を下剤で浄化﹅﹅するだけで十分であろう」この二つに増えたこの哲学者の薄い本は背中あわせにみえる。「理性的存在者」という一つの語彙のみがその通路を繋いでいるのだがそのことを検討するにはこの章では短かすぎる。あたらしい方から、あくまで独断論とことわられたうえで記されている部分とその原註の引用でこの章は結ぶことにする。

 したがって人間の魂は、すでに現世においても此岸、彼岸の二つの世界を同時に結合したものとみなさなければなるまい。人間の魂は肉体と個人的に結びついている限りでは、物質界だけをはっきりと感じている。これに反し、霊界の一員としては人間の魂は霊的存在のもろもろの純粋な影響を感じとり、逆にこちらからも霊界に影響を与えることになる。したがって、此岸、彼岸の結合がなくなったとたん、人間の魂が常に霊的存在と共存していた共同体だけが残り、おのれの意識をはっきりとした直観を得るために開かねばならなくなるのだ。
〔原註〕亡くなった人の赴く場所としての天国について語るとき、普通、そこは頭上はるかかなたの無限の宇宙空間のなかにあると考えられている。しかしそこから見たら、われわれの地球も、天の星の一つとして出現し、別世界の住人がたしかな根拠に基づいて、われわれの地球を指さし、見てごらん、あそこに、いつかわれわれを迎え入れてくれるはずの永遠の喜びの宿、天国があるのだと言っているかもしれないことが考慮されていない。…
 


〈つづく〉

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